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プロフィール
HN:
えぞ
年齢:
46
HP:
性別:
男性
誕生日:
1978/06/23
職業:
SE
趣味:
いろいろ
自己紹介:
頭を使うことを比較的好むが、難しいことは不得手。
博覧強記を目指すが、底は浅い。 凝り性な反面、飽きっぽい。 ゲーム好きで、ギャンブル嫌い。 座右の銘 「なるようになる」 「明日できることは今日しない」
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僕は「努力に無駄なし」という言葉が好きだ。ただ、この言葉を聞いて普通に受ける印象とは異なった意味で。
この言葉を命題として取り扱うために「すべての努力は無駄ではない」と言い換えよう。そして、対偶を取ると「すべての無駄なものは努力ではない」となる。誰かがやっている"努力"も無駄に終わってしまえば、それは"自称努力"であり、意味のない徒労に過ぎない。 それでは、「無駄に終わる」というのはどういうことか。それは「いい結果が得られたかどうか」で判断される。どれだけ頑張っても、どれだけ時間を費やしても、設定した目的を達成できなければただのゴミである。「参加することに意味がある」「過程が大事」などと言う場合でも、なんらかの目的があったはずだ。そこから目を逸らして、できなかった言い訳を探す行為はくだらないことだと思う。 『劇場版銀河鉄道999』でキャプテン・ハーロックはこう言った。 「男なら危険をかえりみず、死ぬとわかっていても行動しなければならないときがある。 負けるとわかっていても、戦わなければならないときが。」 この言葉を否定するつもりはない。信念を持って行動するとき、挑まなければならない「勝負どころ」というものは必ず訪れる。そこで勝ち目がないからといって逃げ出すことは、それはそれで努力を怠っていることになる。だが、だからといって、「勝負どころ」かどうかも判断せず、勝ち目の薄い勝負を何も考えずに続ける行為が肯定されるわけではない。99%負ける勝負でも、1%は勝利の可能性は残されている。「負けるとわかってる」勝負ではない。その1%を追い求め、少しでも可能性を高くするべく最後の最後まで頑張ってやったのならば、そのときには何かが残っているはずである。 目的を達成しなければ努力ではない。だが、その目的はいつだって変えることができる。結果が出た後でさえも、何らかのプラスの要素を見つけ出すことができるはずだ。最終的にプラスでありさえすればいい。そのためにできることを探す。それこそが「努力」なはずだ。 「努力に無駄なし」。 もしよかったら、あなたも覚えておいてほしい。 P.S. この文章は最低でも20歳以上、基本的には僕と同年代以上の人に読んでもらうことを想定している。 つまり、時間が有限であることを身にしみて感じられるようになった世代とでもいうべきか。 それよりも若い人間に対しては「結果など考えずに今できることをやりなさい」というだろう。 出すべき「結果」などその時点では存在しないか、取るに足らないことだろうからだ。 PR |
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