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プロフィール
HN:
えぞ
年齢:
46
HP:
性別:
男性
誕生日:
1978/06/23
職業:
SE
趣味:
いろいろ
自己紹介:
頭を使うことを比較的好むが、難しいことは不得手。
博覧強記を目指すが、底は浅い。 凝り性な反面、飽きっぽい。 ゲーム好きで、ギャンブル嫌い。 座右の銘 「なるようになる」 「明日できることは今日しない」
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14:00。
みなとみらい駅着。遅刻者が一人いたので、ゲーセンで時間をつぶす。 15:40。 1時間半以上経って遅刻者到着。元町・中華街まで電車で。 16:00。 中華街着。横浜大世界という、1920年代をモチーフにした室内テーマパークに入る。 16:30。 大世界内で、チンタオビール飲みながら京劇を観る。 変わり面といって一瞬でかぶっているお面が変化するのが面白かった。 17:00。 僕のわがままで関帝廟に行く。 関帝とは三国志の関羽のこと。彼は死後、神として祀られていて、 横浜にも社がある。線香をあげてきた。 17:30。 予約していた中華料理屋に到着。 紹興酒を飲みながら、四川料理に舌鼓。辛口の料理は紹興酒に合うね。 伊勢海老のチリソースやらフカヒレの姿煮やら普段口にしない料理を堪能した。 20:30。 店を出て、次どうするか考える。 とりあえず、みなとみらいまで戻ろうということになった。 21:00。 横浜コスモワールドの観覧車に乗ろうとしたが、 35分待ちということで却下。 お化け屋敷に入る。微妙。 その後、そこにあったゲーセンで遊ぶ。 久しぶりにDDRをやるとヘトヘトでした。 ということで、ゲーセンに始まり、ゲーセンに終わった今回の横浜行。 観覧船に乗ったり、港の見える丘公園に行ったり、中華街で食べ歩きしたり したかったが、それは次の機会に。とりあえず、遅刻はするなといいたい。 P.S. 横浜コスモワールドのゲーセンにて、 太鼓の達人で「日本ブレイク工業社歌」のハイスコアを出してしまった。 やれやれ、そんなんかよ。
前の続き。今度は別の視点から。
後輩の話において「流れがある」ということに対する立脚点は大きく分けて二つ。 A:ビラの例(ビラをまけばビラのヒット率は0でもビラを見ていないお客様が来る。ビラをまかなければそういう客も来ない)。 B:麻雀にも流れがある。Aの例はそれと同じである。 Aについては前回のとおり、検証が足りないんじゃないの? という疑問を呈したことでひとまず置いておこう。ここではBについて考える。多少麻雀用語が含まれるのは容赦願いたい。 まず「麻雀にも流れがあるでしょ?」というが、麻雀の流れとは一体何なのだろうか。 ツモ牌の偏りだろうか。あるいは、局単位の好不調だろうか。半荘単位の? 一日単位の? そのほかにも「麻雀の流れ」というものが定義されるかもしれないが、思いつかない。そういったところの補足を願いたいところである。 次に、仮に「麻雀の流れ」の定義が補足されたとして、それについての実在の検証がされているのかという疑問がある。 ツモ牌の偏りであれば、これは前回のサイコロの例で挙げたとおり、多少の偏りは十分にあり得るし、もしも統計とは明らかに違った偏りを見せる場合はなんらかの原因(洗牌の不備やイカサマなど)を考えるべきだ。 好不調の波の場合、長期間の平均であれば実力相応の結果が現れる、あるいはそこで現れた結果が実力であると断言できる。もし仮に流れをよくする、つまり好調を維持することができれば成績は上がるだろう。その場合、「好調を維持する」方法が確立されているならばそれは実力以外のなにものでもない。「説明のつかない何か」であるところの流れとは一線を画す。 そして前二つの疑問が解消されたとして、つまり、「麻雀には○○という流れがある」ということが一般的に言えたとして、それがはたしてビラの例に適応されるのかどうかという問題がある。 もしもツモ牌の偏りのことであれば、ビラをまいてヒット率0でも客が来ることも十分にありえるし、来ないこともありえるということを示しているに過ぎない。好不調の波についても同様である。 まとめよう。Bには3つの説明不足な点がある。 1:彼の言う「麻雀の流れ」というものが明確に定義されていない。 2:1で定義された上で「麻雀の流れ」というものが実際に存在するのかどうかの検証がされていない。 3:2で実在が確定された上で「麻雀の流れ」がAの例における事象と同じものであるかどうかの検証がされていない。 ここまで不足な点があるにもかかわらず、断言してしまうことは詭弁の域を出ない。断言してしまうことによって、聞き手が自分の都合のいいように解釈し、正しい方向に考えてしまう可能性があるからだ。多少長くなるが、似たような例を引用して紹介する。 (引用開始) 半信半疑の私に、開口一番、宜保先生様は、 「亡くなった、あなたのお祖母さんの霊が、ついていらっしゃるわよ」 と、告げた。 (そら、始まった) 正直なところ、初めはこう思っていたのだ。ところが、である。 「その方が毎日食べていたものを、亡くなってからは、あなたが代わりに食べるようになっているわよ」 ここまで聞いて思い浮かんだのが、「尼崎のおばちゃん」だ。(中略)毎日蕎麦ばかり食べていたのだが、僕が大学に入った頃に亡くなった。 もちろん、叔母が死んだ翌朝から急に蕎麦が食べたくなったというのではない。(中略) 「なんて旨いものがあるんだ!」 と感激した私は、それ以来、毎日のように蕎麦屋通いをするようになったのである。(中略)確かに、叔母が死んだ時期と蕎麦屋に入り浸り始めた時期は近い。宜保女史がなぜそれを言い当てたのか、当時は不思議に感じたものだ。まあ、言い当てたといっても「お祖母さん」と「叔母」の違いもあるし、こちらが口に出した情報に乗っかってきただけと言うこともできる上に、彼女は一言も「蕎麦」とは言っていないのだから、客観的には不思議でも何でもないことかもしれない。それに、「おばあちゃんと自分が好物が似ているものがある」というのは、実は高い確率であり得ることで、そこを利用しようとした発言だったのかもしれない。 (中略)第一、「あなたのお祖母さん」と言っておきながら、「叔母さんになら毎日蕎麦を食べていた人がいます」と私が一言漏らした途端、「あなたのお祖母さん」といっていたニュアンスを、「お婆さんのような叔母さんかしら」の方へ移行させてきたのは、少々「ズル」で「ご都合」な感じがする。 (引用終了 松尾貴史『オカルトでっかち』84p-86p) 話術としては非常に巧い。意図してないとすれば天才的ですらある。だが、誠実ではない。こういったところを誠実に、論理的に積み重ねない限り、ロジカルを否定することは許されないことなのだと思う。
「ロジカルでない流れというものが存在する」という話題が友人のblogに書かれてあった。
その根拠となるその友人の後輩(まあ、僕の後輩でもあるわけだが)の言葉を引用する。 (引用開始) 「流れってあるでしょ?ビラの効果だけではないんですよ。ビラをがんばって1,000枚まけば、ビラのヒット率が0%でも、ビラを見ていないお客さまが2,3人、ふっと来店するんですよ。 ところが、ビラをまいていない時はそんなお客さまさえ、来ないんですよ。 そこは、ロジカルではなく、事実として「流れ」があるんです。 麻雀にも流れがあるでしょ?同じですよ。」 (引用終了) 僕はこれをみてちょっと結論を出すのが尚早すぎやしないだろうかと思った。彼は何度の試行でそういった結論を出したのだろうか。 この例がロジカルでないと言い切るのであれば、徹底的に仮説を立て、試行し、検証してその上でロジックでは説明できないと結論づけられてはじめて使用するべきだと思う。 そうでない限り、「流れ」などという言葉でお茶を濁してしまうことは、たかだか数回発生した事象が恒常的に適応しうるものだと判断したり、確率的に数%のものを大切にするあまり、より多く起こりうることから目をそらしたりする危険性がある。 僕が気に入らないのは、言外に「流れ」を信じる⇒一生懸命にやる、「流れ」を信じない⇒一生懸命にやらない、という考え方が見え隠れするように感じるからだ。それは心の持ちようであり、ロジカル、非ロジカルとは何の関係もない。仕事を懸命にこなすために「頑張ってればそのうちいいことがあるさ」と前向きに考えることはいいことだと思う。ただ、そこに甘えがなければ。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、人事を尽くさなければ天命を待ってはいけないものだと思う。 ロジカルに物事を考えるというのは泥臭くて、めんどくさくて、しかも効果は目に見えづらいものである。結論の得られないこともありうる。そういった努力がないがしろにされ、誰かの思いつきやちょっとした経験などで断定的に物事が語られるのはどうかと思う。 ここでひとつ言っておきたいことがある。僕は「流れ」というものを完全には否定していない。ただ、定義が違うだけだ。 僕が思う「流れ」というのは、「人為的には知覚、操作のできない事象の偏り」だと思う。たとえば確率の偏りだ。サイコロで10回連続で6が出たとして、そういうのを「流れ」というのであればそうなんだろう。しかし、だからってどうなる? それを前もって知ることができればいいが、そんなことはできない。できるのであれば、僕はそれを「流れ」とは呼ばない。 たとえば、さっきのサイコロの例であれば、次に何が出る可能性が高いかと問われれば、僕は6と答える。それは「そういう流れだ」とかそんなあいまいな理由ではない。このサイコロが6が出やすいサイコロなのではないかと疑うからだ。 あるいは、前もって同じサイコロで1000回試行していて1〜6までの分布が平均的なのであれば、僕には次に何が出るか分からない。そこでさらに6が出たとしてもなんら不自然ではない。その一回で6が出る確率は1/6だ。そういうことが「流れ」なのではないだろうか。 もちろん世の中には「原理は分からないけど効果がある」と思われるものもたくさんある。 たとえば鍼灸治療がそれにあたる。プラシーボ効果も多分に含まれているとは思うが、昔から効果があるとされてきたものなのだから間違いないのだろう。 そういったものにたいして「原理が分からないのだからやらない」と考えるのは間違った考え方で、「効果があるのだからやる。ただ、原理については今後も追求していく」というのがロジカルな態度であると思う。そして原理が分かってくればより効率的な手段を見つけることも可能になってくる。人類はそうやって進歩してきたのではないだろうか。逆に言うとそうやって行動することこそが、人類に唯一与えられた「真実」を見つけ出す手段なのだと思う。 もう一度言う。「この世にはロジックでは解決できない問題が存在する」これについては否定しない。しかし、あなたの言うことがそれに当たるかは、それをロジカルに考え抜いた結果であるかどうかによる。それが甘えや逃避ではないかを、僕は疑う。
今日は七夕の節句。節句は奇数月に行われ、以下のようなものがある。。
一月七日 人日の節句 三月三日 上巳の節句 五月五日 端午の節句 七月七日 七夕の節句 九月九日 重陽の節句 十一月は? とか何で一月は数が違うの? などと疑問に思うかもしれないが、それはおいておいて。 どうして奇数月なのかというと中国では奇数が陽の数、偶数が陰の数と考えられており、 それが重なる日は、あ、めでてえなぁということになるらしい。 ところ変わって、英語では奇数をODD NUMBER、偶数をEVEN NUMBERと呼ぶ。 ODDには「半端な、奇妙な」という意味があり、EVENには「等しい、公平な」という意味がある。 おそらく、天秤ばかりに同じ重さの重りをのせるとき、奇数なら傾き、偶数なら水平になるようなイメージなのではないだろうか。 一方では陽の数字、めでたい数字と呼ばれ、他方では奇妙な数字、半端な数字と位置づけられる。 不思議なものである。
<body onkeydown=move(event.keyCode);><script>
var C=new Array(51);for(i=0;i<51;i++)C[i]=new Array(51);JX=JY=1;MX=MY=49;HX=HY=E=0; function init(){for(i=0;i<51;i++)for(j=0;j<51;j++)C[i][j]=0; for(i=0;i<51;i++)C[0][i]=C[i][0]=C[50][i]=C[i][50]=2;for(i=2;i<50;i+=2){C[i][2]=1; for(;;){a=Math.floor(Math.random()*4);if(set(i,2,a))break;}}for(i=2;i<50;i+=2){for(j=4;j<50;j+=2){C[i][j]=1; for(;;){a=Math.floor(Math.random()*3);if(set(i,j,a))break;}}}C[JX][JY]=3;C[MX][MY]=-1;draw();} function draw(){s="<table border=1><tr><td>"; for(i=HY;i<HY+11;i++){for(j=HX;j<HX+11;j++){switch(C[i][j]) {case 0:col="#FFFFFF>■";break; case 1:col="#000000>■";break;case 2:col="#333300>■";break; case 3:col="#0000FF>●";break;case -1:col="#FFFF00>●";break; default:break;}s+="<font size=1 color="+col+"</font>";} s+="<br>";}s+="</td></tr></table>";if(E)s+="<br>Clear!!";document.body.innerHTML=s;} function set(y,x,n){switch(n){case 0:y++;break;case 1:y--;break; case 2:x++;break;case 3:x--;break;}if(C[y][x])return 0;C[y][x] = 1;return 1;} function move(key){C[JY][JX]=0;if(E)return;switch(key){ case 37:if(C[JY][JX-1]<=0)JX--;break;case 38:if(C[JY-1][JX]<=0)JY--;break; case 39:if(C[JY][JX+1]<=0)JX++;break;case 40:if(C[JY+1][JX]<=0)JY++;break;} if(JX==MX&&JY==MY)E=1;C[JY][JX]=3;HX=JX-5;if(HX<0)HX=0;if(HX>40)HX=40; HY=JY-5;if(HY<0)HY=0;if(HY>40)HY=40;draw();}init();</script> 感想を書くのが遅れたのは、攻略本を探していたから。 PS2は実家においてきた上、ソフトは従姉に貸しているので、 せめて攻略本で雰囲気を味わおうという魂胆。 先週、ようやく見つけ、ICOの世界を多少思い出すことができた。 もともとはPS2で発売されたゲームを宮部みゆきがノベライズ。 小説ではイコがいけにえに選ばれた背景、ヒルダの過去が中心となって 描かれている。これはゲームの世界観を広げ、奥行きを持たせるという 点において成功してる。しかし、ゲームの中心である静寂の世界を二人で さまよい、切り抜けていく微妙な緊張感は再現できていない。 ICOは雰囲気を味わうゲームだ。だれもが胸の中に抱え、 そして失ってしまう心の中の少年の部分を懐古し、再現するゲーム。 ぜひ、ゲームをプレイしていただきたい。もしもPS2を持っているなら、 ゲームソフト代は遊べる。PS2を持っていないなら借りてでもやる価値はあると思う。
スティング
94点。 脚本、俳優、音楽、どれをとっても申し分なし。 主題曲はおそらく映画音楽の中でも最も有名な曲のうちのひとつだ。 しょっぱなからあっと言わせ、その後もいい意味で予想を裏切ってくれる展開。 そして最後のドンデン返し。 この面白さは30年経った今も古びない。 おそらく10年後に見ても同じように面白いと思う。 ストーリーの芯は復讐劇で、しかも結構人が死んでいく話なのに まったく暗くならず、爽快感すら感じるのは演出と音楽のおかげだろう。 人狼 70点。 この映画で描かれているのは組織の対立であり、イデオロギーの対立である。 そして、そのイデオロギーに依存することでしか 生きられない男の、女の、悲しい末路である。 脚本は素晴らしい。しっかりと世界が構築されていて、 この物語はこの結末しか迎えられないことは分かっている。 わかってはいるが、それでも僕は伏と圭が逃げ出してしまうという 展開を想像せずにはいられない。 つながれたアドバルーンの合間を縫って、 ふわふわと上っていく風船のように、 組織のくびきを断ち切ることができたなら・・・。 映像もまた素晴らしい。 セルアニメ映画として最高峰の完成度だと思う。
生きている間に一度は見たいものというのがいくつかある。
たとえばピラミッドだったり、ロゼッタストーンだったり、 オーロラだったり、エアーズロックだったり。 また、生きている間に一度は聞きたいフレーズというものもいくつかある。 その中でも僕が一番聞きたいのは「この、ドロボウネコ!!」というフレーズである。 ドラマなどではよく聞くフレーズだが、実生活で口にしたことのある人は少ないだろう。 もちろん、ウケ狙いや、冗談などで口にしたのでは意味がない。 自然に、ごくごく自然に、思わず言ってしまったというそんなリアルドロボウネコが、僕は聞きたい。 僕は夢想する。 僕はどこかのバーのカウンターでバーボンか何かを飲んでいる。 静かな店内を突然、女性の叫び声が切り裂く。 「だましてたのね!」 僕は何事かと思い、声のした方を振り向く。 テーブル席に3人。1人が男。2人が女。 女性の一人は立ち上がっている。彼女が先ほどの声の主だろう。 顔を真っ赤に上気させ、握り締めた拳は小刻みに震えている。 男性の方に目をやると、彼は明らかに動揺しており、立ち上がっている女性と、もう一人の女性を交互に見やっている。 そして、残る一人の女性はタバコをふかしながら、冷たい目で男性を見ている。 「ちょ、ちょっと落ち着けよ、他の客が見てるじゃないか」男があわてて言う。 「そんなの関係ないわ、だいたいあなたが悪いんじゃない。私に隠してこんな女と。」 立ち上がった女は怒りが収まらない様子でまくし立てる。 一瞬の静寂。周囲の客はみんな彼らに釘付けだ。 タバコをくゆらせている女性がポツリとつぶやく。嘲笑の表情を浮かべて。 「ふっ、みっともない」 次の刹那、乾いた音が店内に響く。平手打ちをくらった女のタバコがふっとぶ。 殴った女はフォロースルーの体勢も完璧に決まったまま、 「この、ドロボウネコ!!」 と叫ぶ。 そして、手近なコップをとり、男の顔面にぶっかけ、ヒールを床にたたきつけながら、店を後にする。 そして僕はその後ろ姿を眺めながら、心の中でガッツポーズをとるのだ。 “よく頑張った!感動した!”と。 おそらくはこんな状況に遭遇することは一生ないだろう。 やれやれ。 |
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