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プロフィール
HN:
えぞ
年齢:
45
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性別:
男性
誕生日:
1978/06/23
職業:
SE
趣味:
いろいろ
自己紹介:
頭を使うことを比較的好むが、難しいことは不得手。
博覧強記を目指すが、底は浅い。 凝り性な反面、飽きっぽい。 ゲーム好きで、ギャンブル嫌い。 座右の銘 「なるようになる」 「明日できることは今日しない」
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7/18
朝からレンタカーを借りて、Mとふたりで海へ。 山陰の角島というところに行く。 角島はすごく海がきれいで、数年前に橋ができたために行きやすくなった。 前回はGWで海水浴はできなかったので、この季節に行くことにした。 海はきれいだったが、人がむちゃくちゃ多くて、食事とシャワーに難儀した。 でも、しっかり泳いだ。晴れ晴れとした青空の下でチャプチャプ楽しんだ。 うつぶせになって泳いでいたせいか、ふくらはぎが日焼けして痛い。 顔は日焼け止めを塗って、Tシャツを着て泳いだので露出している肩や腕だけは覚悟していたのだが、 意外な攻撃にあった。もちろん、今もなお痛い。まあいいけどね。 その後、駐車場に行くと、なんと車の右目の部分がへこんでいる! びっくりしていると、「あのー、Ezoさんですか?」と女性に声をかけられる。 なんでも、その方がぶつけてしまったらしい。 駐車場でのすれ違い時にぷつかったということらしい。 12:30頃に事故があって、それから16:00に僕らが帰ってくるまで待っていたらしい。 正直、レンタカーなので僕としては痛くはないが、気の毒なことだ。 警察を呼んで事故処理をしてもらう。 へこんでいたが、ライトは大丈夫だし走れそうだったので予定通り旅館へ行く。 だが、左にハンドルを切ると、ガリガリと音がしたので、ビビって見てみると、 タイヤの内側のプラスティックのカバーがタイヤに擦れていた。 パンクなどしなくて助かったが、とりあえず、当たらないように曲げて旅館へ。 旅館について食事を取り、風呂に入って寝る。 旅館はちょっぴり古かったが、それなりによかった。 7/19 旅館の人にガムテープを借りて、車の応急処置。ドキドキしながら帰る。 無事レンタカー屋に到着し、事故の状況などを話す。僕も現場にいたわけじゃないから、 よく分からないことだらけだったが。結局NOC(ノン・オペレーション・チャージ、つまり営業補償) とやらで余分に2万円取られた。ぶひ。 自宅に戻り、みんなで昼食。 僕、M、父、母、姉、甥、姪の7人+犬1匹という大所帯になった上、 チビふたりが泣いたりいたずらしたりと目が離せない状態で、 しっちゃかめっちゃかな中そうめんをいただく。 毎日こんな風ににぎやかなんだろうなあと思う。いや、実家もいいもんです。 と、ひたっている暇もなく、帰るために小倉駅へ。 のぞみで東京まで5時間。途中新大阪でMとお別れ。次に会うのはいつになることやら。 写真は実家の犬。 名前は文太。 PR
というわけで、この4日間を振り返る。
帰省の主目的はこないだ生まれた姪っ子(生後2ヶ月)に会うことと、 海水浴に行くこと。 7/16 出勤前に東京駅まで行き、頼まれてあった東京ばな奈のロールケーキ (東京駅か、羽田空港にしか置いていない)を買う。 朝からちょっとしたミッションだったが、なんとかこなす。 帰宅して支度して、大阪行きのバスに乗るべく、池袋へ出る。 時間があったので、『マッハ』の前売りを買おうと思って、 シネマサンシャインに行ったが、「前売りは7時までです」とつれない返事。 そのまま時間つぶしにゲーセンへ。GIGOと向かいのDINGDONGでぼちぼち。 10時にバスに乗り込む。翌日6時到着。 7/17 今回の帰省に同行する大阪のMを待つ。 インターネットカフェで時間をつぶした後、新大阪へ向かう。 しかし、このネットカフェ、一見さんでも身分証の提示とかがなかったんだが、 大丈夫なんかいね。もしも僕が悪い人だったら大変よ??いや、絶対何もしないけど。 新大阪から新幹線で小倉へ。 できてから行っていなかった小倉伊勢丹に行ってみる。 入口にわっしょい神社なるものができていた。なんじゃこりゃ。 11階で昼食をとる。牛タンシチュー定食は結構うまかった。 その後、商店街のつじ利という茶屋でまったり。つじ利にはMと帰るたびに来ている。 姪っ子の出産祝いはあれこれ買ったのだが、甥っ子(1歳半)のお土産を買うのを忘れていた。 急遽そいつをゲットしにゲーセンへ。プーさんのマスコットが無事に手に入った。 夕方、自宅へ戻る。 夕食を食べに、近くのレストランへ。そこは2階が座敷になっていて、 子連れでも気兼ねなく食えるので重宝している。 クーラーをがんがん効かせて鍋を食べる。うーん、贅沢。 自宅へ帰り、出産祝いの服とアルバムを渡して寝る。 ついでに横浜の不気味なパンダを見せると、甥がやっぱり怖がっていた。 「いうこと聞かせる為に置いていって」と母(つまり彼の祖母)に 頼まれたため、実家においてきた。かわいそうに。。。
マッハという映画が気になる。
http://www.mach-movie.jp/ どれくらい気になるかというと、 かつて『少林サッカー』を予告で観た時と同じくらい気になる。 多分、24日に観に行く。いや、絶対行く!!!!
「レザボア・ドッグス」を観た。
クエンティン・タランティーノ監督第一作。 にして、タラ作品の中では個人的ベスト1。 血と暴力と下品な表現が苦手でない人には超おすすめ。 タランティーノといえば、オープニングがむちゃくちゃかっこいい。 クレジットに入るまでの流れ、そしてオープニングテーマ。 しょっぱなからしびれさせてくれる。 そして、タランティーノといえば、音楽がむちゃくちゃかっこいい。 映画で独自に音楽を作らず、他から持ってくるのは有名な話だ。 キルビルにて、布袋寅泰の曲を使いたいとオファーしたとき、 布袋からの新しく曲を作って提供するという申し出を断ったというエピソードがあるが、 これこそ彼の音楽へのこだわりを示すものだろう。 ちょっともったいないような気もするが。 そして、タランティーノといえば、会話がむちゃくちゃかっこいい。 彼の作品は一見バイオレンスシーンに目を奪われがちだ。 たとえば「キルビルvol.1」はド派手な殺陣が話題となったが、 それは深作作品など日本映画へのオマージュであり、 彼の真骨頂ではない。 暴力のない会話シーンの方がよりスリリングで、観てるこっちが緊張する。 レザボアドッグスで言えば、冒頭のチップのやり取り、 そして後半の一触即発(結局発しちゃうわけだが)のピリピリした空気。 あとは、長回しのセリフもいい。 「パルプフィクション」「ジャッキーブラウン」では サミュエル・L・ジャクソンがたっぷりと長台詞を魅せてくれる。 「キルビルvol.1」のラストもそうだ。 タランティーノの脚本は基本的に単純で一本道だ。 ストレートな展開の見せ方が非常に巧い。 ひねりがないとも言うが、そういうのは他の人に求めよう。 まあ「パルプフィクション」ではシナリオを複数本絡ませ、 しかも時系列的に前後させるという手の込んだ真似を見せてはいるが、 それでもそれぞれの筋は並べてしまえば単純だ。 「レザボア・ドッグス」も中身は薄い。 普通の映画ならクライマックス20分くらいの内容だろう。 それでもあっという間に100分が経ち、エンディングロールが流れる。 これって逆にすごいことなんじゃないか? 全体の流れよりも場面場面でのかっこよさを追求しているがゆえのシンプルさ。 まさにオタク監督。 彼の脚本作品や出演作品については再観ののち紹介することにしよう。 個人的には「デスペラード」(デップ出演じゃない方)のタランティーノは結構楽しかった。 「レザボア・ドッグス」 95点。 「パルプ・フィクション」 83点。 「ジャッキー・ブラウン」 68点。 「キルビルvol.1」 90点。 「キルビルvol.2」 67点。
(今回は結構ネタばれ。注意されたし)
チャン・ツィイーがひたすらかわいい映画。 全シーンの80%にチャン・ツィイーが映り、 全シーンの60%にチャン・ツィイーが一人で映り、 全シーンの40%にチャン・ツィイーの顔のアップが映ってる。 チャン・ツィイーのプロモーションか、これは? まあ、かわいいから許す。 チャン・ツィイー扮するところのディは村にやってきた青年教師に恋をする。 自由恋愛の珍しかった1950年代の中国で、彼に思いを伝えるために、 ディは控えめかつ積極的なアプローチをする。 道ばたで待ち伏せしたり、後をつけていったり。 自分の作った食事を食べてもらおうと画策したり。 彼が村を離れる時は、自分の作った餃子を 持っていってもらおうと必死に馬車を追いかけ。 彼が村に戻ると約束した日には吹雪の中を待ち続け。 結局倒れてしまうが、起き上がるが早いか町まで行こうとしてまた倒れ。 ・・・今やったら確実にストーカーよ?? ま、かわいいからいいけど。 映画は現在→過去→ふたたび現在という形で推移する。 そこで現在はモノクロで、過去はカラーで表現しているのが面白い。 現在、ディの夫(つまり青年教師)が死んでしまった後は 彼女にとって世界が鮮明さを失ってしまったことを示唆しているのだろうか。 そして、色彩豊かに語られる彼女と夫のなれそめこそが、彼女にとってのリアルなのだろうか。 教師の死後、病院から村まで運ぶ時に、彼の教え子達がたくさんやってきて、 かわるがわる担いで運んでいた。彼の人徳がうかがえるそういう描写が感動的。 チャン・ツィイーのプロモーションとしても、 ひとつの恋愛映画としても十分に楽しめる。 意外と良かった。85点。
14:00。
みなとみらい駅着。遅刻者が一人いたので、ゲーセンで時間をつぶす。 15:40。 1時間半以上経って遅刻者到着。元町・中華街まで電車で。 16:00。 中華街着。横浜大世界という、1920年代をモチーフにした室内テーマパークに入る。 16:30。 大世界内で、チンタオビール飲みながら京劇を観る。 変わり面といって一瞬でかぶっているお面が変化するのが面白かった。 17:00。 僕のわがままで関帝廟に行く。 関帝とは三国志の関羽のこと。彼は死後、神として祀られていて、 横浜にも社がある。線香をあげてきた。 17:30。 予約していた中華料理屋に到着。 紹興酒を飲みながら、四川料理に舌鼓。辛口の料理は紹興酒に合うね。 伊勢海老のチリソースやらフカヒレの姿煮やら普段口にしない料理を堪能した。 20:30。 店を出て、次どうするか考える。 とりあえず、みなとみらいまで戻ろうということになった。 21:00。 横浜コスモワールドの観覧車に乗ろうとしたが、 35分待ちということで却下。 お化け屋敷に入る。微妙。 その後、そこにあったゲーセンで遊ぶ。 久しぶりにDDRをやるとヘトヘトでした。 ということで、ゲーセンに始まり、ゲーセンに終わった今回の横浜行。 観覧船に乗ったり、港の見える丘公園に行ったり、中華街で食べ歩きしたり したかったが、それは次の機会に。とりあえず、遅刻はするなといいたい。 P.S. 横浜コスモワールドのゲーセンにて、 太鼓の達人で「日本ブレイク工業社歌」のハイスコアを出してしまった。 やれやれ、そんなんかよ。
前の続き。今度は別の視点から。
後輩の話において「流れがある」ということに対する立脚点は大きく分けて二つ。 A:ビラの例(ビラをまけばビラのヒット率は0でもビラを見ていないお客様が来る。ビラをまかなければそういう客も来ない)。 B:麻雀にも流れがある。Aの例はそれと同じである。 Aについては前回のとおり、検証が足りないんじゃないの? という疑問を呈したことでひとまず置いておこう。ここではBについて考える。多少麻雀用語が含まれるのは容赦願いたい。 まず「麻雀にも流れがあるでしょ?」というが、麻雀の流れとは一体何なのだろうか。 ツモ牌の偏りだろうか。あるいは、局単位の好不調だろうか。半荘単位の? 一日単位の? そのほかにも「麻雀の流れ」というものが定義されるかもしれないが、思いつかない。そういったところの補足を願いたいところである。 次に、仮に「麻雀の流れ」の定義が補足されたとして、それについての実在の検証がされているのかという疑問がある。 ツモ牌の偏りであれば、これは前回のサイコロの例で挙げたとおり、多少の偏りは十分にあり得るし、もしも統計とは明らかに違った偏りを見せる場合はなんらかの原因(洗牌の不備やイカサマなど)を考えるべきだ。 好不調の波の場合、長期間の平均であれば実力相応の結果が現れる、あるいはそこで現れた結果が実力であると断言できる。もし仮に流れをよくする、つまり好調を維持することができれば成績は上がるだろう。その場合、「好調を維持する」方法が確立されているならばそれは実力以外のなにものでもない。「説明のつかない何か」であるところの流れとは一線を画す。 そして前二つの疑問が解消されたとして、つまり、「麻雀には○○という流れがある」ということが一般的に言えたとして、それがはたしてビラの例に適応されるのかどうかという問題がある。 もしもツモ牌の偏りのことであれば、ビラをまいてヒット率0でも客が来ることも十分にありえるし、来ないこともありえるということを示しているに過ぎない。好不調の波についても同様である。 まとめよう。Bには3つの説明不足な点がある。 1:彼の言う「麻雀の流れ」というものが明確に定義されていない。 2:1で定義された上で「麻雀の流れ」というものが実際に存在するのかどうかの検証がされていない。 3:2で実在が確定された上で「麻雀の流れ」がAの例における事象と同じものであるかどうかの検証がされていない。 ここまで不足な点があるにもかかわらず、断言してしまうことは詭弁の域を出ない。断言してしまうことによって、聞き手が自分の都合のいいように解釈し、正しい方向に考えてしまう可能性があるからだ。多少長くなるが、似たような例を引用して紹介する。 (引用開始) 半信半疑の私に、開口一番、宜保先生様は、 「亡くなった、あなたのお祖母さんの霊が、ついていらっしゃるわよ」 と、告げた。 (そら、始まった) 正直なところ、初めはこう思っていたのだ。ところが、である。 「その方が毎日食べていたものを、亡くなってからは、あなたが代わりに食べるようになっているわよ」 ここまで聞いて思い浮かんだのが、「尼崎のおばちゃん」だ。(中略)毎日蕎麦ばかり食べていたのだが、僕が大学に入った頃に亡くなった。 もちろん、叔母が死んだ翌朝から急に蕎麦が食べたくなったというのではない。(中略) 「なんて旨いものがあるんだ!」 と感激した私は、それ以来、毎日のように蕎麦屋通いをするようになったのである。(中略)確かに、叔母が死んだ時期と蕎麦屋に入り浸り始めた時期は近い。宜保女史がなぜそれを言い当てたのか、当時は不思議に感じたものだ。まあ、言い当てたといっても「お祖母さん」と「叔母」の違いもあるし、こちらが口に出した情報に乗っかってきただけと言うこともできる上に、彼女は一言も「蕎麦」とは言っていないのだから、客観的には不思議でも何でもないことかもしれない。それに、「おばあちゃんと自分が好物が似ているものがある」というのは、実は高い確率であり得ることで、そこを利用しようとした発言だったのかもしれない。 (中略)第一、「あなたのお祖母さん」と言っておきながら、「叔母さんになら毎日蕎麦を食べていた人がいます」と私が一言漏らした途端、「あなたのお祖母さん」といっていたニュアンスを、「お婆さんのような叔母さんかしら」の方へ移行させてきたのは、少々「ズル」で「ご都合」な感じがする。 (引用終了 松尾貴史『オカルトでっかち』84p-86p) 話術としては非常に巧い。意図してないとすれば天才的ですらある。だが、誠実ではない。こういったところを誠実に、論理的に積み重ねない限り、ロジカルを否定することは許されないことなのだと思う。
「ロジカルでない流れというものが存在する」という話題が友人のblogに書かれてあった。
その根拠となるその友人の後輩(まあ、僕の後輩でもあるわけだが)の言葉を引用する。 (引用開始) 「流れってあるでしょ?ビラの効果だけではないんですよ。ビラをがんばって1,000枚まけば、ビラのヒット率が0%でも、ビラを見ていないお客さまが2,3人、ふっと来店するんですよ。 ところが、ビラをまいていない時はそんなお客さまさえ、来ないんですよ。 そこは、ロジカルではなく、事実として「流れ」があるんです。 麻雀にも流れがあるでしょ?同じですよ。」 (引用終了) 僕はこれをみてちょっと結論を出すのが尚早すぎやしないだろうかと思った。彼は何度の試行でそういった結論を出したのだろうか。 この例がロジカルでないと言い切るのであれば、徹底的に仮説を立て、試行し、検証してその上でロジックでは説明できないと結論づけられてはじめて使用するべきだと思う。 そうでない限り、「流れ」などという言葉でお茶を濁してしまうことは、たかだか数回発生した事象が恒常的に適応しうるものだと判断したり、確率的に数%のものを大切にするあまり、より多く起こりうることから目をそらしたりする危険性がある。 僕が気に入らないのは、言外に「流れ」を信じる⇒一生懸命にやる、「流れ」を信じない⇒一生懸命にやらない、という考え方が見え隠れするように感じるからだ。それは心の持ちようであり、ロジカル、非ロジカルとは何の関係もない。仕事を懸命にこなすために「頑張ってればそのうちいいことがあるさ」と前向きに考えることはいいことだと思う。ただ、そこに甘えがなければ。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、人事を尽くさなければ天命を待ってはいけないものだと思う。 ロジカルに物事を考えるというのは泥臭くて、めんどくさくて、しかも効果は目に見えづらいものである。結論の得られないこともありうる。そういった努力がないがしろにされ、誰かの思いつきやちょっとした経験などで断定的に物事が語られるのはどうかと思う。 ここでひとつ言っておきたいことがある。僕は「流れ」というものを完全には否定していない。ただ、定義が違うだけだ。 僕が思う「流れ」というのは、「人為的には知覚、操作のできない事象の偏り」だと思う。たとえば確率の偏りだ。サイコロで10回連続で6が出たとして、そういうのを「流れ」というのであればそうなんだろう。しかし、だからってどうなる? それを前もって知ることができればいいが、そんなことはできない。できるのであれば、僕はそれを「流れ」とは呼ばない。 たとえば、さっきのサイコロの例であれば、次に何が出る可能性が高いかと問われれば、僕は6と答える。それは「そういう流れだ」とかそんなあいまいな理由ではない。このサイコロが6が出やすいサイコロなのではないかと疑うからだ。 あるいは、前もって同じサイコロで1000回試行していて1〜6までの分布が平均的なのであれば、僕には次に何が出るか分からない。そこでさらに6が出たとしてもなんら不自然ではない。その一回で6が出る確率は1/6だ。そういうことが「流れ」なのではないだろうか。 もちろん世の中には「原理は分からないけど効果がある」と思われるものもたくさんある。 たとえば鍼灸治療がそれにあたる。プラシーボ効果も多分に含まれているとは思うが、昔から効果があるとされてきたものなのだから間違いないのだろう。 そういったものにたいして「原理が分からないのだからやらない」と考えるのは間違った考え方で、「効果があるのだからやる。ただ、原理については今後も追求していく」というのがロジカルな態度であると思う。そして原理が分かってくればより効率的な手段を見つけることも可能になってくる。人類はそうやって進歩してきたのではないだろうか。逆に言うとそうやって行動することこそが、人類に唯一与えられた「真実」を見つけ出す手段なのだと思う。 もう一度言う。「この世にはロジックでは解決できない問題が存在する」これについては否定しない。しかし、あなたの言うことがそれに当たるかは、それをロジカルに考え抜いた結果であるかどうかによる。それが甘えや逃避ではないかを、僕は疑う。
今日は七夕の節句。節句は奇数月に行われ、以下のようなものがある。。
一月七日 人日の節句 三月三日 上巳の節句 五月五日 端午の節句 七月七日 七夕の節句 九月九日 重陽の節句 十一月は? とか何で一月は数が違うの? などと疑問に思うかもしれないが、それはおいておいて。 どうして奇数月なのかというと中国では奇数が陽の数、偶数が陰の数と考えられており、 それが重なる日は、あ、めでてえなぁということになるらしい。 ところ変わって、英語では奇数をODD NUMBER、偶数をEVEN NUMBERと呼ぶ。 ODDには「半端な、奇妙な」という意味があり、EVENには「等しい、公平な」という意味がある。 おそらく、天秤ばかりに同じ重さの重りをのせるとき、奇数なら傾き、偶数なら水平になるようなイメージなのではないだろうか。 一方では陽の数字、めでたい数字と呼ばれ、他方では奇妙な数字、半端な数字と位置づけられる。 不思議なものである。
<body onkeydown=move(event.keyCode);><script>
var C=new Array(51);for(i=0;i<51;i++)C[i]=new Array(51);JX=JY=1;MX=MY=49;HX=HY=E=0; function init(){for(i=0;i<51;i++)for(j=0;j<51;j++)C[i][j]=0; for(i=0;i<51;i++)C[0][i]=C[i][0]=C[50][i]=C[i][50]=2;for(i=2;i<50;i+=2){C[i][2]=1; for(;;){a=Math.floor(Math.random()*4);if(set(i,2,a))break;}}for(i=2;i<50;i+=2){for(j=4;j<50;j+=2){C[i][j]=1; for(;;){a=Math.floor(Math.random()*3);if(set(i,j,a))break;}}}C[JX][JY]=3;C[MX][MY]=-1;draw();} function draw(){s="<table border=1><tr><td>"; for(i=HY;i<HY+11;i++){for(j=HX;j<HX+11;j++){switch(C[i][j]) {case 0:col="#FFFFFF>■";break; case 1:col="#000000>■";break;case 2:col="#333300>■";break; case 3:col="#0000FF>●";break;case -1:col="#FFFF00>●";break; default:break;}s+="<font size=1 color="+col+"</font>";} s+="<br>";}s+="</td></tr></table>";if(E)s+="<br>Clear!!";document.body.innerHTML=s;} function set(y,x,n){switch(n){case 0:y++;break;case 1:y--;break; case 2:x++;break;case 3:x--;break;}if(C[y][x])return 0;C[y][x] = 1;return 1;} function move(key){C[JY][JX]=0;if(E)return;switch(key){ case 37:if(C[JY][JX-1]<=0)JX--;break;case 38:if(C[JY-1][JX]<=0)JY--;break; case 39:if(C[JY][JX+1]<=0)JX++;break;case 40:if(C[JY+1][JX]<=0)JY++;break;} if(JX==MX&&JY==MY)E=1;C[JY][JX]=3;HX=JX-5;if(HX<0)HX=0;if(HX>40)HX=40; HY=JY-5;if(HY<0)HY=0;if(HY>40)HY=40;draw();}init();</script> |
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